2013年01月20日更新

国分寺

2012年の夏頃、東京の駅名の由来を調べるのに凝っていた。


特に通勤時に使う中央線沿線の駅名は良く調べ、
その中には当然「国分寺駅」も含まれていた。


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国分寺駅のある東京都国分寺市の名は、
741年(天平13年)に聖武天皇が、仏教による国家鎮護のため建てた「武蔵国 国分寺」に由来する。


この「国分寺」は東京都国分寺市に限らず、「和泉国分寺」、「備中国分寺」など、日本各地に建立されている。


総国分寺は奈良の「東大寺」で、尼寺の「国分尼寺(こくぶんにじ)」とセットのケースがほとんど。


「武蔵国 国分寺」は、建立から約600年後、
鎌倉時代後期の1333年(元弘3年)に幕府軍・北条泰家と反幕府軍・新田義貞による分倍河原の戦いの際に焼失。
その遺構は埋没することとなる。


そして、明治時代に現地踏査が実施され、「国分寺跡」の場所が確定。
1956年に初めて発掘調査が行われ、現在も断続的に続けられている。


鎌倉時代に大いに関係のある寺跡だけに、いつか行ってみたいと思っていたところ、
2012年9月某日に、国分寺界隈に行く用事が発生。


これは行くしかない!!ということで、「国分寺跡」探索を決行することにしたんだが、
持ち時間はたったの1時間。


ちゅうことで、かなり駆け足になってしまった国分寺散策を綴ってみたいと思います。


「国分寺駅」北口方面にある某所から「国分寺跡」に向かって出発。
東京都道133号小川山府中線を南下すると、
武蔵野台地を形成する国分寺崖線に沿いながら流れる野川に突き当たった。


野川にかかる橋の名称を確認すると「ふどうばし」。


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「ふどうばし」というぐらいなんだから、あの明王が祀られているはず。
と思ったが、不動明王の像はなく、その名が刻まれた石碑が橋のすぐそばに置かれていた。


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石碑以外にも庚申塔も置かれており、
橋の由来を説明する解説板もきちんと設置されていた。


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この【散策の部屋】を始めてから、何度か庚申塔に出会い、登場させてきたけど、
どうもその意味を完全に理解できていなかった。


庚申という日がなんであるか、その日に何を行っていたかは理解できたんだけど、
なんで“塔”を作る必要があったのか?


しかし、先日読んだ「東京の歴史名所を歩く地図」(ロム・インターナショナル編、河出書房新社)に、
この疑問の答えが、超分かりやすく記述されていた。


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下記、引用。


「庚申塔とは、江戸時代初期に、
 中国の不老長寿を説く道教の三尸説(さんしせつ)から大衆に広まったものである。
 人体に宿る三尸という3匹の虫が、庚申の夜に寝ている人の体から抜け出して天帝(帝釈天)に
 その人の罪業を報告するという。


 天帝は報告に基づいてその人の寿命を差し引き、
 その人が死ねば三尸は鬼になれるので、
 庚申の夜は、宿主である人間にはやく寝てほしいと望んでいる。


 そこで、人々は庚申の夜に集まり、おしゃべりや酒食の宴で夜明かしをする。
 これが「庚申待ち」という信仰である。


 庚申の日は年6回あり、3年間庚申を勤めれば三尸の力が弱まるといわれ、
 成就すると庚申塔を立てた。」


これでパーペキに理解しました。


さて、この「ふどうばし」は、野川と元町用水という小川の合流地点で、
橋の上から野川を見ると、水は透き通っていてとても綺麗だった。


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しばらく住宅街を歩くと、再び元町用水とぶつかり、
「お鷹の道」と呼ばれる遊歩道が整備されていた。
名前の由来は、この地に尾張徳川家の御鷹場(鷹狩を行う場所)があったため。


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とても静かな場所で、川のせせらぎを聞きながらのんびりと歩きたいところだが、
時間がないので小走りで突き進む。


そして、数分後、
「国分寺楼門」が突如姿を現した。


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門の前にある解説板によると、
米津寺(東久留米市)から移設されたとあるが、その理由は記述されていない。


後で調べたら、米津寺が明治22年に焼け、寺再興の資金を調達するためにこの楼門を売り出し、
国分寺が購入したとのこと。


寺院にもこういう売買があると知り、ちょっと驚いた。


「国分寺楼門」をくぐり南下すると「武蔵国 國分寺」の石碑が。


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この時点ですでに出発から20分ぐらい経過しており、
残り時間は40分となっていた。


「武蔵国 國分寺」の石碑を過ぎると石段がある。


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そこを駆け上がると広場が登場。
なんもないんだけど、ここが「武蔵国 国分寺跡」。


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先述の通り、現在断続的に発掘されており、
建物跡の構造、配置などを調査中とのこと。


この辺りは寺の中枢部となる「金堂」「講堂」「鐘楼」「経蔵」といった建物、
そして、中枢部の南面中央にあった「中門」等があったようだ。


それら建造物の一部なのか、地面にはところどころ遺構らしきものが見受けられた。


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この場所から西、府中街道を越えた「黒鐘公園」の敷地内に「武蔵国分尼寺跡」がある。
ここまで来たんだから「行きたい!」ところだが、時間がなく断念。
この周辺の史跡を幾つか見ながら、別ルートで国分寺駅の方へ戻ることに。


まず訪れたのが「国分寺薬師堂」。


「国分寺」は、1333年(元弘3年)の分倍河原の戦いで、
一旦敗れた新田義貞が敗走した際に焼失。


それを申し訳なく思ったのか、新田義貞は、1335年(建武2年)に「薬師堂」を建立した。
その「薬師堂」がこの階段の上にある。


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階段をあがると「仁王門」がドドォーンとお出迎え。


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もちろん、阿形と吽形もいます。


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二体の仁王像はおっかない顔をしていますが、
門の下に「スズメバチに注意」という注意書きが貼らていて、
こちらの方がよっぽどおっかない。


「仁王門」をくぐるとさらに階段が・・・。


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出発以来休憩なし、時に小走り、時に疾走してきたので、
大した段数じゃないけど、階段はつらい・・・。


なんとか登りきると「薬師堂」が。


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この「薬師堂」と先の「仁王門」は、宝暦年間(1751年-1763年)に再建されたもので、
鎌倉時代末期に新田義貞が建てた建物ではないが、それでも260年も前のものだ。
両方とも市指定文化財となっている。


「薬師堂」の本尊は薬師如来坐像で、こちらは国の重要文化財とのこと。


「薬師堂」に向かって右手には「鐘楼」。


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左手には「燈篭」。


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「燈篭」には「KEEP OUT」のテープが張られており、なんだかミスマッチだけど、
先の震災以降、史跡で頻繁に見かける光景だ。


それにしても時間がない・・・。
ということで、登ってきた階段を駆け下りる。


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先ほど歩いてきた「お鷹の道」の方へ向かうと、
ちょうど「国分寺楼門」の正面に現「国分寺」がある。


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「武蔵国 国分寺」を継承する寺だが、真言宗豊山派の寺院だ。
門柱の裏には「弘法大師(空海)」の名が刻まれていた。


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「国分寺」の境内には、「万葉植物園」が併設されており、
住職によって昭和25年から38年にかけて集められた万葉集に歌われた160種の植物が植えられている。
こちらは市指定天然記念物。


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植物にはそれぞれ万葉集の歌が添えられている。


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「国分寺」を出て、来た道を戻ると「真姿の池湧水群」の道標があり、左折。


ここから来た時とは別ルートになる。


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元町用水路を右手に見ながら進むとほどなく、
その水源となる「真姿の池湧水群」に辿り着く。


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昭和60年に環境省の名水百選に選ばれ、さらに平成10年には東京都名勝に指定されている。
この辺りに来ると水量も多くなり、水の音が大きくなる。


「真姿の池」の名は、平安時代、玉造小町(たまつくりこまち)という女性が顔の病気にかかった際、
「国分寺」の薬師如来に祈願したところ、童子が現れ池の水で顔を洗うように言った。
言われた通りにしたところ、病気が治り元の姿(真の姿)に戻ったことに由来すると伝えられている。


この「真姿の池湧水群」の先には、先ほどの「薬師堂」以上に急な階段が・・・。


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これを登るのか・・・と思うとかなり萎えるが、
「薬師堂」やこの階段の高低差が、国分寺崖線だ。


国分寺崖線という言葉を知ったのは、【散策の部屋】「武蔵野市」散策のきっかけとなった
「多摩の歴史1 武蔵野市/三鷹市/保谷市/田無市」という本。


国分寺崖線は、7万年〜3万年前にかけて多摩川が、
武蔵野台地を侵食することによって出来た河岸段丘(かがんだんきゅう)の連なりの名称で、
その長さは、立川市から大田区まで約30キロに及ぶ。


「多摩の歴史1」によると、
三鷹市は野川の近辺からは縄文、弥生、古墳時代の人骨、土器、古墳などが出土しており、
古くから集落があったとみられる。


人が住むには水が必要。
野川がその役割となった。


そして、自然の川が出来るためには谷間が必要。
国分寺崖線がその役目となった。


伊藤家の墓地は多磨霊園にあるし、車の免許の書き換えは府中教習所なので、
東八道路はよく通るんだけど、確かに野川公園の手間には坂がある。


今まで気にしたこともなかたけど、あの坂が国分寺崖線だったんですな。


「真姿の池」の近くを流れる玉川上水の水や雨水が関東ローム層に浸透し、
礫層と呼ばれる層でさらに濾過され、崖の側面から滲み出たのが湧水となり、
元町用水路、そして野川へと続くというわけだ。


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そんな国分寺崖線を登るとまたまた「武蔵国分寺跡」が。


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こちらは西の尼寺に対して、東の僧寺があった地域とのこと。


この僧寺の外側には8世紀後半から9世紀初頭の竪穴式住居跡が発見されている。
やはり水辺の近くには人が住むんだね。


そして、この「武蔵国分寺僧寺跡」の敷地内には、「溝跡」が保存されていた。


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上の写真だと分かりにくいけど、矢印で示した黒い部分が溝のあと。


この溝は「武蔵国分寺」を取り囲む幅2.1〜3.0m、深さ2.5〜1.5mの堀で、
東西900m,南北500mにも及び、広さは東京ドーム約10個分とのこと。


さて、この「溝跡」の時点でタイムアップ。
そろそろ戻らないと次の予定に間に合わない。
ということで、国分寺駅を目指したんだが、途中にアップダウンが結構あった。


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これも「国分寺崖線」。


今回の散策では、「国分寺崖線」の凄さをいろいろと学ぶことが出来ましたが、
この辺りは「武蔵国分寺跡資料館」、「おたかの道湧水園」、「七重塔跡」、
「武蔵国分尼寺跡」など見どころ満載。


今度はもう少しゆっくり巡りたいものです。

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プロフィール

1974年、東京都生まれ。少年時代、ジャッキー・チェンの映画に魅了され、映画小僧の道を突き進む。大学卒業後、映画宣伝代理店に入社。『リーサル・ウェポン4』、『アイズ ワイド シャット』、『マトリックス』などを担当。

2000年、スカパー!の映画情報専門チャンネル「カミングスーンTV」転職し、映画情報番組の制作を手掛けたのち、2006年、映画情報サイトの運用に従事。その後、いろいろあって、2013年7月よりCS放送「エンタメ〜テレHD」の編成に携わっている。

本ブログは、多ジャンルの情報提供を志すT-SHIRT-YA.COMのオファーを受けて、2003年4月にスタート。2007年12月にブログ化。
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