2012年09月26日更新

ディープツアー2012 鎌倉 PART2

稲城の「ありがたや山」「弁天洞窟」 「穴澤天神社」
大船の「田谷の洞窟」、鎌倉の「朝比奈切通し」と大物スポットを経て、
ディープツアーを満喫した2人は、十二所から鎌倉方面へと神奈川県道204号金沢鎌倉線を歩いていた。


この辺はまさに佐藤アサトの地元。


というか、彼の実家がある。


せっかくなので現在は人に貸しているという実家へ行ってみる。


個人情報に関わることなので、場所の明記や写真の掲載は控えますが、
路地の奥の方にあり、ちょっと一人で歩くには怖い場所にあった。


佐藤アサトは中学生の頃、細い路地をメタルを聴きながらチャリで爆走していたという。
そんな早熟なメタラーなくせに、「この家に昔、犬がいて、超怖かったんですよ」と、
ちょっとビビリな少年時代を自ら暴露。


彼の家の近くには、源頼朝の早くからの側近であり、
頼朝の死後も、権力者を次々と抹殺していった北条一族と協調し、
鎌倉執権政治を支えた「大江広元邸跡」の石碑があった。


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十二所を抜ける辺りで、佐藤アサトが、
「この先に、よくわからないちょっとした塚があるんですよ」と、
地元ならではのプチスポットの存在を語る。


するとコメント通りに、左手にガソリンスタンドのエネオスがある明石橋を渡って、
すぐ右手に雑木林の中にひっそりと佇む塚があった。


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ちっぽけな公園と住宅と道路に囲まれた塚は、後で調べたら通称「明石橋の塚」、
「大慈寺跡墓地」だという。


「大慈寺跡墓地」に関しては、このサイトに詳しく記述されていたので、そちらに譲ります。


本当に鎌倉って、ちょっとした塚ややぐらに歴史がある。


しかも住宅と隣接しているのが凄い。


「石橋塚」から再び歩き始めたんだが、このまま進むと昨年と同じルートを辿ることになる。


それではあまり面白くないので、佐藤アサトから「別のルートで行きますか?」という提案が。


かなり疲れていたんだが、余力はあるので「そうしよう」と同意すると、
「じゃ、モリナガシンノウの墓に行ってみましょう」と。


「モリナガシンノウ?」


「南北朝時代の人ですよ」


南北朝時代のモリナガシンノウって誰だっけ?


まったく無知だった日本の歴史を少しは学ばないといかんということで、
確かにここ数か月、日本史の本を読んだりした。


しかし、一回読んだだけでは大まかな流れは理解できても、
細かい人物名までは覚えてられん。


「行列のできる法律相談事務所」で知られる東大法学部出身の本村健太郎弁護士も、
「暗記は反復」と言っていた。


1回や2回読んだだけでは、覚えられないのだ。
しかも四十路手前のザブングルの加藤の筋肉みたいにカッチカチな脳みそだからなおさらだ。


「モリナガシンノウ」が誰なのかもよく理解しないまま、
佐藤アサトのナビゲーションの元、県道204号を昨年昼飯を食べた「釜めし 多可邑」の少し手前、
泉水橋で右折。


あとは路地やら細い道やら坂道を歩き続ける。


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土地勘がないんで、どこに向かっているのかさっぱりわからなかったんだが、
佐藤アサトいわく、泉水橋辺りから「モリナガシンノウの墓」に行くには、
県道204号をあのまままっすぐ進み、大分行った先にある彼の母校「第二小学校」を右折し、

ぐるりと回り込む様なルートが一般的らしい。


しかし、今歩いている浄明寺という地名の住宅街を抜けていくルートは、
知られざるショートカットなのだという。


またまた地元ならではなところを見せ付けてくれたんだが、
なんとあろうことか、ジモティーの佐藤アサトが道に迷った模様。


「あれ……ここじゃないな……」
「あれ……ここでもないな……」


住宅街をひたすら歩き回る。


時間は夜の19時半ぐらい。
東京だったら宵の口だし、住宅街であっても人通りは少なからずある。


しかし、この辺りは、ほとんど人が歩いておらず、
たまに宅急便の車が通るぐらい。


まさに閑静な住宅街。


舗装はされているが、「ありがた山」クラスの急勾配を上がったりしたうえ、
かなり蒸し暑くって、「もうそのまま帰ろうよ…」と口に出かかったが、
必死にルートを探す佐藤アサトを見るとそうとも言えず…。


そうこうしながら歩くこと数分、佐藤アサトの目つきが変わった。


「ここだ!」


というなり、いきなり現れた細い階段を足早に下りていった。


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そして、その階段を降り切ったところに「モリナガシンノウの墓」へと通ずる広場があった。
周りが住宅街であるにもかかわらず、木がお生い茂って真っ暗。


暗闇の先に階段が見えた。


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佐藤アサト曰く、「あの階段を上がった先に、モリナガシンノウの“首塚”があるんですよ。
ガキの頃、ここで肝試しをしんたんですよねぇ」とのこと。


写真ではフラッシュを焚いているから明るく見えるが、
実際には階段の辺りは更に暗くなっており、確かに肝試しをするにはおあつらえ向きだ。


で、その「モリナガシンノウ」って何者なの?
ちゅうか“首塚”?
さっきまで“墓”って言っていなかったっけ?


鎌倉幕府は、後醍醐天皇と足利尊氏の共謀にってよって滅亡したんだが、
後醍醐天皇の息子で、討幕に一役買ったのが護良親王(モリナガシンノウ)だ。


しかし、護良親王と足利尊氏は対立し合い、
最終的に護良親王は足利尊氏に捉えられ、斬首されてしまう。


その首が祀られているのが、この「護良親王の“首塚”」だという。


“墓”と“首塚”だと大分ニュアンスが変わってくるのですが…。


そんな話を教えられた直後に、佐藤アサトは何を思ったのか、
「ちょっとタバコを吸ってきます」と立ち去ってしまった。


暗闇の中、一人ぼっちで特にすることもないので、
おそらく「護良親王之首塚」とでも書かれているであろう石碑を撮影するも、
フラッシュでぶっ飛んでしまい、何が書いてあるのかもわかりません。


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それにしても階段が気になる。
気になって、気になって仕方がない。


そんなに気になるのなら行くしかない。


「弁天洞窟」では出番がなかった100均で買った豆電球の懐中電灯が、
遂に役立つ時が来た。


オレンジのか細い光を発する懐中電灯を手にして、
一人でまずは階段の下まで行ってみる。


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流石にちょっと怖い気もするが、
基本的に幽霊とかそういうのは信じていないし、
そもそも心霊スポットへ面白半分で行くというつもりもない。


汗だくで歩き回ってやっとたどり着いたのだから、
ちゃんと拝んで行きたいのだ。


ということで、階段を上がってみた。


階段を上がった先は、マジで真っ暗でした。


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これはさすがに一人で行くのは危険すぎるので、
とりえあず、一旦階段を降り、入口へ戻ると、
佐藤アサトが煙草を吸い終えていた。


佐藤「なんか煙草吸っていたら、懐中電灯の明かりがチラチラ見えて…。
   まさかひとりで階段を上がっていくとは思わなかったですよ」


伊藤「えっ?ちゅうか、上に行かないの?」


佐藤「行くんですか?」


伊藤「ここまで来て行かないわけ?」


佐藤「行きますか……?」


伊藤「行こうよ。だってガキの頃肝試したところなんでしょ?」


佐藤「そうですけど……それは昔のことで……」


伊藤「ひょっとしてビビってる?」


佐藤「ちょっと……」


伊藤「行かないと後悔するし、男が廃るよ」


佐藤「ですよね……わかりました……行きましょう……」


このルートを提案したことを後悔しているに違いない佐藤アサトと共に、
再び階段を上がる。


「この上に確か、もう一個階段があったはず」という佐藤アサトの言葉通り、
階段を上がった先には、また階段があった。
懐中電灯の明かりだけを頼りに、えっちらこっちらと階段を上がると、再び階段が。


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この写真で分かってもらえるかわかりませんが、本当に真っ暗なんです。


伊藤「この階段あがるとお墓なの?」


佐藤「確か……」


その言葉を信じて、階段を上がると、
また階段が……。


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暗闇の中だと、階段を上がるよりも下る方が危ないので、
ちょっとこれ以上階段が続くようだとしんどい。


「この階段を上がってみて、また階段があるようだったら諦めよう」と決め、
三度目の階段を登る。


すると、ありました。
「護良親王の首塚」が。


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ほんとーに真っ暗です。
懐中電灯を消したら、漆黒の暗闇です。


電池が少ないのか、
懐中電灯の明かりがチラチラとしだしたので、
申し訳ないが、手早く両手を合わせて、辞去することに。


予想通り、下りの階段は上りの階段以上に怖かった。


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「こえぇー」を連呼しながら、
ヘコヘコと階段を降り、入口に無事到着。


いやー、まさかの大冒険だった。


階段を降りてから、聞いたんだが、
護良親王は、殺害される時、生への執着から刀を口で止め、そのまま刀をへし折り、
折れた刀を咥えたまま、別の刀で斬首されたという。


本来、討った首は持ち帰らなくてはならないんだが、
護良親王の形相があまりに凄まじく、持っていた者が草むらに放り投げてしまったのだ。


後々、それではあんまりだということで、この「護良親王の首塚」が作られた。


うーん、この話は、行った後に聞いてよかったぁ〜。


ということで、「朝比奈切通し」が〆のつもりだったんだけど、
図らずも「護良親王の首塚」というインパクト大の大ボスが、
最後の最後に登場となりました。


が、しかし!この「護良親王の首塚」ですが、
あとで、「護良親王の首塚」についてネットで調べた際に、腑に落ちない点があった。


紹介しているサイトに掲載されていた写真に写っている首塚の門扉の色が青なのに対して、
今回撮影した写真の門扉は黒だった。


サイトの写真では、階段を上がって正面に門扉があるのだが、
今回行った時は、階段を上がった踊り場の右側に門扉があった。


で、改めて撮影した写真をよく見ると、門扉の奥に墓などなく、
階段らしきものがある。


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実は、この階段を上がった先にあるのが、「護良親王の首塚」だったのだ。
つまり、われわれはきちんと「護良親王の首塚」にお参りしたとは言えなかったのだ。


ガビィーン。


でも、撮影した写真を見ると黒い門の前に、お供え物が置いてある。
ってことは、現在は、黒い門扉より先へは、入ることが出来ないのかもしれない。


「護良親王の首塚」の後、
その護良親王が幽閉されていた牢屋があるという「鎌倉宮」を通りかかった。
(実際には牢屋に入れられてはいなかったらしい)


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本堂は開いていたが、それ以外は閉まっているようで、長居はしなった。


続いて、先ほど邸宅跡をみた「大江広元の墓」がある階段の元へ辿り着いた。


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勢いで、「行こうか?」と言ってみるも、
佐藤アサトは「行くなら一人で行ってください」とつれない返事。


一人で行っちゃおうかとも思ったが、懐中電灯の電池がなくなってしまったようで、
電源を入れてみたが、明かりが点かず断念。
(本当は一人で行くのが怖くて、電池が切れてくれてホッとした!?)


さっきの「護良親王の墓」の行き帰りの途中で電池切れにならなくて本当に良かった。
あそこで電池が切れていたら流石に泣くわ。


「大江広元の墓」の近くには「源頼朝の墓」がある。
この階段を登った上だ。


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こちらは昨年訪問しているので、パス。


次に「腹切りやぐら」に再訪という案もあったが、
この時間にあそこに行くのは、ちょっと気が引ける。


そのまま県道204号線を進むのはつまらないので、
ちょっと「鶴岡八幡宮」へ寄ってみる。


実は「鶴岡八幡宮」の東側には立ち入ったことがなく、今回初。


すると「白旗神社」があった。


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神奈川県やその他の県にも「白旗神社」はいくつか存在する。
さっきの「源頼朝の墓」の階段麓にある神社もそうだ。


この「鶴岡八幡宮」の境内の中にある「白幡神社」は、
頼朝の死後、1200年に妻である北条政子によって創建されたという説が一般的のようだ。


建物は黒の漆塗りで、他の建造物とは一線を画している。


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この威厳ある扉の向こうには、かつて源頼朝の像が安置されており、
豊臣秀吉が1590年に小田原城征伐によって後北条氏を下し、天下統一を果たした翌年、
ここを訪れ、その像を抱きながら、
「あんたと私は若い頃苦労したが天下を取った。
 共に凄いが、あんたは良いとこの出だ。
 しかし私は下層階級の出身だからわしの方が凄い」と言ったとか。


唐破風屋根(からはふう※軒がゆったりとした山型に盛り上がっている屋根)も素敵だ。


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でもなんで、源頼朝が祀られているのに神社なんだ?
と疑問に思い、調べたら頼朝は死後、朝廷から「白旗大明神」の神号(神の称号)を得ていた。


「穴澤天神社」も学問の神として菅原道真を、
この日の前日に訪れた「神田明神」では平将門を除災厄除の神として祀っていた。
(2人とも祟り神として恐れられている点が共通している)


たくさん“神”がいる。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教徒といった一神教を信じる人たちからみたら、
理解に苦しむんじゃないかな?
なんて思ったりして…。


さて、ちょっと前にもここ「鶴岡八幡宮」には訪れていたが、
その時は夕暮れ前だった。


しかし、今回は夜だったので、真っ暗なんだろうなって思っていたら、
近々境内でイベントがあるようで、舞殿ではその準備が行われていた。


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こちらは少し離れた参道から撮った写真。
ピンボケになってしまったが、本殿もライトアップされていて、
前回訪れた時とは全く違う雰囲気を醸し出していた。


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「鶴岡八幡宮」を後にし、後は鎌倉駅へと向かうだけ。
せっかくなので、「若宮大路」のど真ん中を貫く「段葛(だんかずら)」を歩くことに。


信号待ちの際、一枚写真を撮ってみた。


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意外と暗くて、オートだとピントが合わず、
これまたピンボケだが、中央からやや右側に巨大な光の玉が写っていた。


おぉ!!これはオーブだ!!!!
間違いない!!!


白い玉のオーブって良いんだっけ?悪いんだっけ?


しかしながら、そんな興奮を一気に鎮める写真も撮っていた。


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進入禁止の標識がフラッシュに反射しただけでした…。


あははははっ!


さて、「段葛」ですが、なんで「若宮大路」のど真ん中に、
一段盛り上がった道を作ったのか?


これにもちゃんと理由があって、昔は今みたいに道路は舗装されていなかったので、
少しばかり強い雨が降ると、水浸し。


多少の雨が降っても歩行困難にならないように、「段葛」が造られた。


因みに「段葛」は、「鶴岡八幡宮」に近づくにつれ、道幅が狭くなっている。
これは遠近法によって、敵が攻め込んできた時に、「鶴岡八幡宮」=「幕府の中枢」が、
実際よりも遠くに見えるようにするために施された仕掛けだ。


鎌倉幕府には城がない。


山と海に囲まれた鎌倉という地そのものが要塞になっている。


そうはいっても、外部との関わりを持つためには道が必要だ。
そのために作られたのが「切通し」であり、「若宮大路」だ。


しかし、道があるということは、攻め込まれる可能性がある。


そこで、「切通し」には「切岸」、「若宮大路」には「段葛」である。


必要なものに対して、きちんと軍事的な対策も取っている。
やっぱり鎌倉は武士政権なんですね。


なんてことは、「段葛」を歩いている最中、これぽっちも考えちゃいませんが……。
「若宮大路」の大変貴重な写真が掲載されているサイトがあったので、リンクを貼っておきます)


「段葛」を歩き切り、「二の鳥居」を右折して鎌倉駅東口に到着。


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湘南新宿ライナーの時間まで、少し時間があり、
佐藤アサトが煙草を吸いたいというので、反対側の西口にある時計台の喫煙所へと向かう。


西口側に行くためには地下道を通るんだが、
その地下道に関東大震災の時の写真が掲示されていた。


「円覚寺舎利殿の倒壊」


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「建長寺山門の倒壊」


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関東大震災で「鎌倉の大仏」は台座が崩れて50センチも前に動いたというから、
木造建築物が倒壊するのは仕方ないのかもしれないが、
あまりに酷い被害に驚きを禁じ得ない。


そして、一番衝撃を受けたのがこの写真。


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「鶴岡八幡宮舞殿の倒壊」と書いてあるが、
よく見ると階段上の本殿も崩れ落ちている。


代わりに今は亡き大銀杏の木はしっかりと立っている。


続いて昨年訪れた「六地蔵付近の焼け跡」


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これも衝撃的だった。


関東大震災といえば、東京の被災状況を伝える写真はよく見るが、
鎌倉の写真は初めて見た。


昨年、東日本大震災で地震の恐ろしさを痛感したが、
これらの写真はその思いを増長させる。


先日、土地の評価額が発表になったが、
ここ鎌倉は下落がもっと高くなった。


原因は津波の想定を14.5メートルと大幅に見直したためだ。


14.5メートルの津波が由比ヶ浜に押し寄せた場合、
「鎌倉の大仏」がある「高徳院」にまで被害が及ぶと予測されている。
(実際に過去に津波がここまで来たという説もある)


「高徳院」は緩やかな坂の上にあるのにもかかわらず、ダメってことは、
「鶴岡八幡宮」とかどうなってしまうのだろうか?


地震よ!来ないでくれ!と願っても、こればっかりはねぇ…。


地震の恐怖を感じつつ、西口へ出る。


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佐藤アサトが煙草を吸い終わった後、駅構内へと入り、
湘南・新宿ライナーに乗り込みました。


さて、前年の「ディープツアー2011 鎌倉」よりも濃厚なツアーとなり、
分量も超大作となってしまいましたが、
今回、散策記を書くに辺り、前回とは大幅に変えた点があります。


それは歴史に関する記述です。


前回は、歴史に興味がなく、
見たもの見つけたものを歴史的背景抜きに紹介することが多かったのですが、
今回は散策に行く前に得た知識、その後に得た知識、
そして、文章を書きながら得た知識をまぜこぜにしながら綴りました。


今でこそ、日本史の興味を持つようになりましたが、
本当に1年前とかまったく興味がありませんでした。


しかし、いまは歴史を学ぶのが楽しくて仕方がありません。
(興味がある範囲は大分狭いですが…)


過去があるから今がある。
遠い昔の出来事も、必ず今に通じている。


いまここにあるものは、何かしら理由があってある。
そんなことを教えてくれる歴史を学ぶ楽しみを得ました。


多分、一年前の小生のように、
歴史に興味がない人がたくさんいると思います。


本来、映画のブログであるにも関わらず、
このところ、散策記ばかり綴っていますが、
少しでも多くの人が歴史に触れることによって、
今の世の中を“有様”を考えるきっかけになってもらえればという思いがあったりします。


なーんて、少し気取ったことを書きましたが、
そんなことを押し付けても仕方がありませんね。


結局のところ、自己満です!


最後に、湘南・新宿ライナーで新宿に到着した後、
2人はここへ降り立ちました。


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佐藤アサト行きつけの「焼き鳥屋」で、今日のツアーを肴に飲んだくれました。
それにしても、「山」「寺」「穴」「道」「墓」と、かなり充実でした。


アサちゃん、ありがとう!
また来年も行きましょう!!


因みに(1):後日、総歩行距離を「ジョギングシュミレーター」を使って調べてみたら、
なんと、昨年を上回る18.5キロ以上歩いていました。
「弁天洞窟」と「田谷の洞窟」の歩行距離がよくわからないので、その辺は適当ですが、
それを差っ引いてもよく歩いたな。


因みに(2):翌日、起きたら軽度の二日酔い。
しかし、またまたツアーに出てしまいました!
こちらは追って、本ブログにて掲載したと思います。
(誰も期待していないかも知れないけど)乞ご期待!

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プロフィール

1974年、東京都生まれ。少年時代、ジャッキー・チェンの映画に魅了され、映画小僧の道を突き進む。大学卒業後、映画宣伝代理店に入社。『リーサル・ウェポン4』、『アイズ ワイド シャット』、『マトリックス』などを担当。

2000年、スカパー!の映画情報専門チャンネル「カミングスーンTV」転職し、映画情報番組の制作を手掛けたのち、2006年、映画情報サイトの運用に従事。その後、いろいろあって、2013年7月よりCS放送「エンタメ〜テレHD」の編成に携わっている。

本ブログは、多ジャンルの情報提供を志すT-SHIRT-YA.COMのオファーを受けて、2003年4月にスタート。2007年12月にブログ化。
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