前回「小伝馬町牢屋敷のその後 Part1 市谷」、「小伝馬町牢屋敷のその後 Part2 中野」の回では、
「小伝馬町牢屋敷」の後身施設を紹介しましたが、
今回は「小伝馬町牢屋敷」が現役だった江戸時代に再び戻りたいと思います。
「小伝馬町牢屋敷」には、多くの未決囚が収容されていたわけですが、
その容疑者たちを捕える警察と裁きを与える裁判所の役割を果たしていたのが、町奉行所だ。
(町奉行所はこれ以外にも消防なども行った)
町奉行所のトップ、今でいう長官の立場にあたる役職が町奉行で、
その部下である与力(よりき)や同心(どうしん)と呼ばれる人たちが、現場を務めていた。
江戸時代には南北の町奉行所があり、それぞれ遺構が残っている。
まず、北町奉行所だが、今の千代田区丸の内1丁目辺りが、都指定の跡地として登録されている。
東京駅八重洲口側、シャングリラホテル東京と第二鉄鋼ビル(2012年11月時点で解体中)の谷間にある細い道に、
石垣で造った花壇がある。
これが北町奉行所の東側にあった江戸城外堀の石垣を再現したものだという。
この北町奉行所で町奉行として活躍した有名人が、遠山景元(とおやまかげもと)。
そう「遠山の金さん」のモデルになった人物だ。
そしてもう一人、町奉行で有名なのが、時代劇ドラマ「大岡越前」の主人公・大岡忠相(おおおかただすけ)。
こちらは南町奉行所勤務。
その南町奉行所の遺構は、なんと2007年に開業した有楽町イトシアにある。
JR有楽町駅中央口を出てすぐ正面のエスカレーターを降りた広場に、
木の桶のようなものが展示されている。
これは、南町奉行所跡から発見された穴蔵だ。
雨が酷い時などは、オフィスの行き来の際、濡れないよう地下道を利用するので、
よくこの広場を通っていたんだけど、今までその存在に全く気が付かないでいた。
案内板にあるように、穴蔵の両脇のベンチには江戸時代の水道管の木が、
そして、穴ぐらいの向かいにある石のベンチには奉行所の石材が用いられている。
南町奉行所は、1707年に常盤橋門内からこの地に移転した。
当時の人たちは、まさか300年後に町奉行所の一部が、
ベンチとして再利用されるなんて思いもよらなかっただろう。
南町奉行所の遺構はまだある。
先ほどのエスカレーターを上がり、地上に出て駅とは反対方向にぐるりと回り込むと石垣がある。
これは平成17年に行われた発掘調査で出土した南町奉行所の石材を使って再現された石組。
歴史的価値のある史跡もこれまたベンチと化してしまっていた・・・。
さらにビールの空き缶も鎮座。
座っている人やビールの空き缶を置いた人は、この石垣が歴史的遺構であることなんか、
気にも留めていないのでしょう。
完全に都会の一部に溶け込んでいるということか?
このようにして現代の東京に残る南北町奉行所に勤めていた与力や同心によって捕えられた人々は、
未決囚として「小伝馬町牢屋敷」に収容された。
まず、この時点で自白をしない者は拷問にあった。
拷問方法は、笞打(むちうち)、石抱責(いしだきぜめ)、海老責(えびぜめ)、釣責(つるしぜめ)の4つで、
当時は笞打から海老責までを責問(せめどい)、または牢問(ろうどい)と呼び、釣責を拷問と呼んでいた。
1つ目の笞打で吐かないと、次に石抱責に移り・・・というように順繰りに行った。
当然のごとく順を追うごとに肉体的な苦痛はひどくなる。
笞打は、後ろ手に縛り上げた罪人を笞で叩く方法。
石抱責は、断面を三角にした松材の上に罪人を正座させ、両ひざの上に1枚50キロ近い平石を積んでいくというもの。
海老責は、罪人を後ろ手に縛り足を組ませ、上半身を前屈させて両足と顔を密着させたまま縛るというやり方。
罪人は海老のように体を折り曲げられたままの状態となる。
最後の釣責は、両腕を背後でくくり天井の梁から釣り上げるという拷問法。
あまり大した拷問ではないように思われるが、縄が腕に食い込み肉を断ち、
さらには肩の骨が皮膚を突き破って、飛び出すことさえもあったという。
肉体的苦痛に耐えられず自白した罪人は、町奉行所へと引っ立てられ裁判にかけられた。
ここで生命刑(死刑)の判決を受けた者は、身分や罪状ごとに異なる形で執行された。
「小伝馬町牢屋敷」では、斬首による死刑のみが行われたんだが、
斬首は武士だけに適用され、庶民は違う方法によって処刑された。
その処刑所があった場所として有名なのが、
南千住の「小塚原処刑場」と大森海岸の「鈴ヶ森処刑場」だ。
そして、先日、仕事帰りに「鈴ヶ森処刑場跡」を約10年ぶりに訪れてみた。
上の写真を見ての通り、夜の訪問でして、撮った写真がどれも何がなんだが分からない状態だったので、
今夏にこの地に訪れた佐藤アサトが撮った写真も掲載したいと思います。
ここ「鈴ヶ森処刑場」では、斬首以上にむごたらしい処刑が多くなされたんだが、
その遺構が多く残っている。
こちらは磔に使用された石台。
この石台の真ん中に開いている穴の部分に刑木を刺し、罪人はその木に磔にされ、
槍や鉾で数十回突き刺された。
刺された穴から血が噴き出し、次第に衰弱し、死を迎える。
さらに死後3日間晒されたという。
磔刑は、関所破りや贋金作り、親などを傷つけた罪人に適用された。
磔石台の右隣にあるのが火炙台。
火を用いた処刑なので、放火犯に適用された。
放火犯は馬で引き回された後、刑場で生きたまま刑木に磔にされ、火で炙られた。
上の写真の火炙台の中央の穴は、磔刑の石台と同じく刑木を刺すためのものだ。
続いて、首洗い井戸。
「小伝馬町牢屋敷」内で斬首となった首がここに運び込まれ、
罪名を書いた木札とともに首を三日二夜、獄門台という台木の上に置かれ晒された。
その首を洗った井戸だ。
この他にもいくつか処刑方法があり、その中でも特に惨いとされていたのが、鋸挽(のこびき)。
主人や親殺しなど重罪に適用される極刑だ。
首だけ出した状態で箱に入れられ、二日間生きたまま見世物として晒し者にされ、
その後、馬で引き回され、最後は磔刑に処せられた。
江戸時代以前は、遺族などが罪人の首に鋸をあて、一回ずつ挽いて傷つけ、
ゆっくりと死に至らしめた。
あまりにも凄惨なので、江戸時代は箱の上に飾りとして鋸を置くだけに留められていた。
ここ「鈴ヶ森処刑場」は、1651年に開設され、明治4年の1871年に閉鎖されるまでの220年の間で、
10万〜20万人の人たちが処刑され、その中にはかなりの数の冤罪者がいたと言われている。
またこの処刑場から数百メートル北上したところに「立会川」が流れている。
この川の名前の由来は、処刑場に連れて行かれる罪人を、
その罪人の縁者たちが最後に見送る場所であったからという説がある。
(諸説あり)
さてさて、「江戸町奉行所」「小伝馬町牢屋敷」「鈴ヶ森処刑場跡」を紹介してきましたが、
これらの地に大いに関係する江戸の刑罰をガッツリと学べる場所が、
御茶ノ水駅の近くに存在するのだ。
その場所とは、明治大学駿河台キャンパス。
このキャンパス内アカデミーコモンの地下に「明治大学刑事博物館」があり、
刑事関係資料や江戸時代の古文書などの歴史資料が20万点も保管されている。
そして、その一部が展示されているんだが、なんと入館料無料!!!
早速行ってみた次第。
いやー、凄い博物館でした・・・。
まず、「町奉行所」がどのようにして罪人たちを捉えたかがわかります。
次に、「小伝馬町牢屋敷」の外観、内観、
そして、どのような施設であったかを知ることが出来ます。
はっきり言って、牢屋敷内の状況は最悪です。
収容人数は完全にオーバーしており、横になって寝ることもできない。
未決囚同士でリンチが横行し、多数の死者が出た。
それらの行動に関して、看守は黙認。
衛生状態も劣悪で、疫病が蔓延し、病死も大勢いた。
常駐の医者はいたが、診察、治療なんてしやしない。
展示されている絵や解説文を読むと体が震えます。
続いて、拷問に使った道具のレプリカが展示されている。
どのように使用されたかもバッチリわかるので、
ますます体が震えます。
そして、それを上回る戦慄を与えてくれるのが、
処刑場で使用されていた処刑具のレプリカと実際の写真。
特に写真は、生々しい。
江戸時代は罪人を晒すことで、犯罪を抑制していたわけですが、
写真のような光景を生で見て、悪いことをしよと思うのが逆に凄い。
さらに、この博物館では西洋の拷問・処刑具も展示されている。
中でも目を引くのが「ニュルンベルクの鉄の処女」。
16世紀、ハンガリーの貴族エリザベート・バートリが造ったとされるこの処刑具は、
内部が空洞で、扉の内側には数本の針が備え付けてあり、
罪人を内部に入れて扉を閉めると、針が罪人の全身を突き刺すという仕組み。
エリザベート・バートリは、「処女の血を浴びると肌が綺麗になる」と妄信し、
なんの罪もない処女の女性をこの処刑具を使って殺害し、その血を浴びたことから、
「鉄の処女」と呼ばれるようになった、
「鉄の処女」は英語にすると「Iron Maiden」。
そうメタル・バンドのアイアン・メイデンのバンド名の由来にもなっているのだ。
といった感じで、江戸時代だけでなく西洋の刑罰まで学べてしまう「明治大学博物館」。
凄いです!
本ブログを読んで、少しでも興味を持たれた方は、訪問した方が良いと思います。
しかしながら、東京は遠くてなかなか行けないよという方々もいらっしゃるでしょう、
そんな方々のためかどうかは分かりませんが、嬉しいことに明治大学は、
江戸時代の刑罰の歴史的資料「徳川幕府刑事図鑑」(1893年、藤田新太郎編・画)をネットで公開している。
明治大学博物館のHPに「刑事部門」のカテゴリーがあり、
そこをクリックすると「徳川幕府刑事図鑑」が閲覧できます。
アクセスして読みましたが、大変興味深い内容でした。
ということで、今回は東京都内にある江戸の刑罰の縁の地について綴ってみました。