2013年12月20日更新

府中PART5 掩体壕

<府中散策 一覧>
【1】「府中PART1 三鷹市龍源寺」
【2】「府中PART2 浅間山」
【3】「府中PART3 府中通信施設」
【4】「府中PART4 ランチ難民」




「府中PART4 ランチ難民」からの続き。


中華料理屋「酔八仙」を出て、甲州街道を甲府方面に戻るとすぐに車返団地交差点。


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随分と変わった地名なので調べてみた。


詳しくはコチラのサイトをご参照頂きたいのですが、
源頼朝、さらには大好きな歴史上の人物・畠山重忠に縁があった。


府中と鎌倉時代って、結構接点があるんだなぁ。


さて、車返団地交差点を越えると白糸台陸橋があり、
エッチラオッチラ自転車を漕いで登ると、ありました!
「白糸台掩体壕(しらいとだいえんたいごう)」!


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掩体壕は、第二次世界大戦中、アメリカ軍の本土空襲から、
貴重な戦闘機を守るために作られた格納施設。


この近くには調布飛行場があったため、昭和19年6月〜9月にかけて、
約60基もの掩体壕が急ピッチで建設されたという。


現在、府中市には4基の掩体壕が現存しており、
今日はその全部を巡る腹づもりだ。


それにしても調べたサイトに載っていた写真と大分違うんだよね。


上記のサイトに掲載されている写真を見ると、住宅街に放置された感じ。


大分整備されたようだ。


せっかくなので白糸台陸橋を下り、近くで見ることに。


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以前の放置状態に比べると、解説板もあるし、
戦跡をきちんと保存しようという府中市の心意気が伝わってくる。


それはとても良いことだと思う。


がっ、しかし!
放置プレイの方が、なんか味があるんだよねぇ。


昨日の鎌倉散策でも感じたことだけど、史跡の管理って本当に難しいと思う。


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解説板によると、この「白糸台掩体壕」は、平成19年から20年にかけて調査が行われ、
戦闘機「飛燕」のために作られたことがわかったという。


同じ年に史跡に指定され、修復工事を経て平成24年に今の状態になった。
本当につい最近なんですね。


つくづく史跡散策というのは、一期一会の可能性が極めて高い。


続いて向かったのが、府中市に現存する4基のうちのもう1基。


先のサイトの情報によると、目指す掩体壕は、私有地にあるようなので、
いささか不安だった。


結果、その不安は的中。


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「府中市朝日町の掩体壕」は、
「府中通信施設」の廃墟群と同じように草に覆われ、
掩体壕があるということを知らない限り、その存在には絶対に気づかないでしょう。


鉄工所内にあるので、見学をお願いしたかったが、
生憎日曜日のため営業しておらず・・・。


諦めて残り2基がある「都立武蔵野の森公園」へ。


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掩体壕を目指して公園内に入ると、ブロロロロロッという爆音が。
「調布飛行場」と隣接しているため、丁度、セスナが着陸した。


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なかなかの迫力でした。
セスナの腹を間近で見ることが出来ました。


公園の間を貫く通りを越えた先に、目的の「大沢2号掩体壕」。


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「白糸台掩体壕」と比べると保護されている程度で、若干放置気味。


「都立武蔵野の森公園」にはもう1基あるはずなので、探すとすぐに見つかった。
「大沢1号掩体壕」


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こちらは「白糸台掩体壕」と同じ感じで、人の手が行き届いているが、
穴を埋めて飛燕のイラストを描くのはどうかなぁ・・・。


分かり易といえばそれまでだけど・・・。


老朽化が激しく、かなり補強されていることがわかる。


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昭和19年頃に作られたものだから、劣化しても仕方がない。


因みに小生の母親は昭和19年生まれです。
つまりこの掩体壕と同い年ぐらい。


コンクリが劣化するんだから、母の身体も・・・。
いたわらねば・・・。


掩体壕の横には、飛燕のブロンズ像。


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飛燕は、昭和18年に陸軍の主力戦闘機として正式採用された「キ61 三式戦闘機」の愛称。
B29爆撃機を迎撃できる数少ない戦闘機だったとのこと。


だからこそ掩体壕によって守られたのでしょう。


府中市に現存する掩体壕のうち「府中市朝日町の掩体壕」は目視できなかったが、
とりあえず所在地を全部把握できたのは、大きな収穫でした。


「大沢2号掩体壕」から「大沢1号掩体壕」へ途中に展望台があり、
せっかくだから少し戻って登ってみた。


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調布飛行場を一望!とまではいかないが、
味の素スタジアムや警察大学なんかを見渡せる。


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そんな景色を眺めていると、ブロロロロッという音が聞こえた来た。
「おっ!またセスナの着陸か?」と期待してみたが、
スクーターが眼下を通り過ぎて行った。


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さて、調布飛行場は、
元々この地にあった畑、家屋、寺などを半強制的に立ち退かして作られた飛行場。


先の飛燕を配置していたため、大戦中は攻撃目標となりB29の爆撃を受けた。


また、特攻隊の訓練施設でもあった。
死を覚悟して旅立っていた乗組員が、かつてここに集結していたことを思うと、
なんとも心が悼む。


古の鎌倉時代の武将が戦った地であり、
爆弾が落とされた地であり、
英霊の縁の地でもある。


まさに歴史の積み重ねで今がある。


展望台から降りて、まだまだ近場にある戦跡を求めながら帰路に着くことに。


まずは「調布飛行場 門柱」を目指して、国分寺崖線に寄り添う野川沿いを南下。


大沢コミュニティセンター前交差点の近くであるという当りはついてはいたものの、
明確にはどこにあるかわからず、見つけるのにてこずったけど、
なんとか見つけることが出来ました。


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解説板によると調布飛行場竣工時、正門として左右に設置されていた門で、
戦時中は、「東部第百八部隊」等と厚い大きな板に墨書きされた表札が掛けられていたという。


「東部第百八部隊」とはなんぞや?と思い、いろいろとネット検索してみたところ、
144部隊とか244部隊とか出てきて、良くわからんかったのですが、
とにかくこの調布飛行場が、帝都防衛の最重要拠点であったことと、
B29による激しい爆撃を受けていたということは分かりました。


遠い昔の出来事のようですが、今年の6月に244部隊の飛行士の方が89歳で永眠していた。
半年前まで生き証人がいた。


戦争を知る人たちが高齢化し、数十年後にはゼロになる。
イコール長いこと日本が戦争に関わっていないってこと。


つまりは平和であるってことなんだけど、
戦争の語り部がいなくなってしまうのは、寂しいし、ちょっと怖い。


さて、散策に話を戻しましょう。
続いて向かったのは、「首都防衛高射砲陣地跡」。
情報によると「椎の実子供の家」という保育園の敷地内にあるようだ。


今日は日曜日。
当然保育園は休園日。


果たして、「首都防衛高射砲陣地跡」を見ることが出来るのか?


大沢コミュニティーセンター前交差点まで戻り、
天文台通り(都道123号境調布線)を左折してすぐの右手に、
写真では分かりにくいが、強烈な坂道があった。


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この坂の上に、
「首都防衛高射砲陣地跡」を敷地内に要する保育園「椎の実子供の家」が存在する。


高射砲陣地跡なわけで、高いところにあるんだろうなぁーって思ってはいたが、
これも「国分寺崖線」の一部なのでしょう、ちょっとエグイ勾配です。


端から諦めて、チャリを引いて登りました。


坂の途中に「首都防衛高射砲陣地跡」を示す道標があり、
それに従って右折。


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しかしながら、案の定「椎の実子供の家」は閉まっているし、
隣にある老人ホーム「どんぐり山」の敷地内にずかずか入っていくのもどうかと思い、
結局、「首都防衛高射砲陣地跡」を見ることは出来ませんでした。


残念だが仕方がない。


以降、「府中PART6 三鷹市再び」に続く。

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プロフィール

1974年、東京都生まれ。少年時代、ジャッキー・チェンの映画に魅了され、映画小僧の道を突き進む。大学卒業後、映画宣伝代理店に入社。『リーサル・ウェポン4』、『アイズ ワイド シャット』、『マトリックス』などを担当。

2000年、スカパー!の映画情報専門チャンネル「カミングスーンTV」転職し、映画情報番組の制作を手掛けたのち、2006年、映画情報サイトの運用に従事。その後、いろいろあって、2013年7月よりCS放送「エンタメ〜テレHD」の編成に携わっている。

本ブログは、多ジャンルの情報提供を志すT-SHIRT-YA.COMのオファーを受けて、2003年4月にスタート。2007年12月にブログ化。
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