2014年08月18日更新

皇居(リベンジ)

これまで何度か訪問を試みたものの、
休園日だったり、時間外だったり、入園したけれども、止む無き事情ですぐに出てきたりと、
とことん縁のなかった「皇居東御苑」。


6月末、遂に念願かなった。


が、しかし、「大手門渡櫓(わたりやぐら)」は改修中。


IMGP0088_R.JPG


東日本大震災で、建物が変形するなどの被害にあい、
耐震補強を含め改修工事が実施された。


「大手門」は、江戸城の正門で、
明暦の大火(1657年)や関東大震災(1923年)、空襲(1945年)などで、
消失、大破しており、現在の建物は、1968年(昭和43年)に再建されたもの。


「大手門渡櫓」の正面の塀には穴が開いている。


IMGPc0090_R.JPG


戦闘時に銃で攻撃するための「狭間(さま)」でしょうか?


塀の前にはしゃちほこ。


IMGP0092_R.JPG


1945年の戦火で消失した時の「大手門渡櫓」の屋根に飾られていたもので、
明暦の大火後の再建時に製造されたしゃちほこと推定されている。


「大手門渡櫓」をくぐり、
「皇居東御苑管理事務所」で札を受け取りいざ入園。


「三の丸尚蔵館」は休館期間中だったので、
まずは、「同心番所」。


IMGP0097_R.JPG


1dousihin_R.jpg


同心は、下級役人で庶務や警察の業務をこなした。


「同心番所」の真ん前には広場があり、
そこには「百人番所」。


IMGP0101_R.JPG


IMGP0099_R.JPG


「百人番所」の正面には、「本丸中之門石垣」。


IMGP0108_R.JPG


36トンにも及ぶ巨大な石材を切込接ぎ・布積みという技法を用いて、
隙間なく美しく積んでいるのが特徴的。


江戸時代、36トンもの石を別の場所で切り出して、
ここまで運び、さらに積む。


どれだけの量力がかかったのだろうか?


その石材が石垣の横に展示されている。


表面が広く奥行きが短い築石、瀬戸内産花崗岩。


IMGP0105_R.JPG


瀬戸内産って、瀬戸内海のこと?
中国・四国地方からここまで運んだのか?


お隣にも瀬戸内産花崗岩と、
大きな石の切り出しが困難な伊豆半島産安山岩。


IMGPsfs0104_R.JPG


こちらのサイトに石垣の切り出し〜運搬〜積み方の詳細が記載されているので、
ご興味がある方は是非読んでみてください、


因みに、「中之門」自体は、関東大震災で大破し、以後、
再建されていない。


「本丸中之門石垣」の間を抜けるとすぐに、
3つ目の番所「大番所」。


IMGP0y110_R.JPG


「同心番所」、「百人番所」よりも位の高い
与力・同心によって警備されていた。


「大番所」を過ぎると坂があり、
その先に「中雀門」が見えてくる。


IMGP0111_R.JPG


別称「書院門」で、最後の関門。
であるにも関わらず、あまりサイトで詳しく語られていない門。


坂を登り切った左手にある石垣。


IMGP0110002_R.JPG


本丸御殿が焼け落ちた文久3年(1863年)の火災で類焼し、
その後が残っている。


中央の石の肌色になっている部分が、
類焼あとか?


「中雀門」を過ぎると、
かつては広大な本丸御殿が広がっていたが、
今は広場になっている。


その広場の左側にある小道を進むと「富士見櫓」。


IMGP0115_R.JPG


fujimi_R.jpg


「富士見櫓」は内堀通りから見えるが、
こうやって後方から拝められるのが、ちょっと嬉しい。


広場の左側沿いを歩くと、「松の廊下跡」。


IMGP0118_R.JPG


案内板によると、廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来。
江戸城中で2番目に長い畳敷きの立派な廊下だったそうな。


そんな廊下の面影はこれっぽちもなく、
雑草の中に石碑がポツンというのが何とも悲しいですが、
松の廊下といえば、言わずと知れた“赤穂浪士討入り”の原因となった事件。


浅野内匠頭が、吉良上野介を斬り付けた理由は、明らかになっていない。


そんな謎を解き明かすべく一人の落語家が立ち上がった。
その名は、柳家喬太郎。


“松の廊下”で何が起こったのか?
独自解釈をぶちまける『仮名手本忠臣蔵』ならぬ、『カマ手本忠臣蔵』。


数多ある喬太郎師匠の新作落語の中でも出色の出来。


youtubeには上がっていません。
CD化はされているのかな?


何にしてもこの噺は喬太郎師匠の所作も重要なので、
ビジュアルを伴わないCDじゃ、面白さ半減だ。


聴きたければ、喬太郎師匠の高座に通うしかない。


道なりに進むと「石室(いしむろ)」。


IMGP0122_R.JPG




抜け穴ではないようだけれど、
穴好きとしては、中が気になって仕方がない。


この先は特に何もないので、
かつて本丸があった広場へと出てみる。


IMGP0119_R.JPG


原っぱ、木々、高層ビル、雲。


よく見ると原っぱの中央に石のプレートが。


IMGP0120_R.JPG


要所に案内板があり、皇居東御苑は割と親切な施設だったけど、
この石碑にはなんの説明もない。


ウィキペディアによると、
明治4年(1871年) から大正11年(1922年)まで、
陸軍近衛師団がこの地で空砲による報時を行ったことを示す石碑。


砲自体は、「江戸東京たてもの園」に保管、展示されている。


まじっか!?


「江戸東京たてもの園」には何度か行っているが、見た記憶がない。


今度行く機会があったら注意してみよう。


さて、いよいよ「天守台」。


IMGPjkjk0125_R.JPG


IMGP0126_R.JPG


説明板にも記されている通り、
天守閣は明暦3年(1657年)の火災で焼け落ちた。


ではこの「天守台」はいつのもの?


以下、「千代田区観光協会」からの引用と加筆と要約。


明暦の大火の翌年、加賀藩前田家の普請により、
高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれる。


これが現在残る天守台。


四代将軍綱吉の叔父である保科正之が、
戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、
城下の復興を優先すべきであると提言し、
以後天守閣は再建されることはなかった。


正しい意見だと思う。


で、登ってみたのですが…。


「天守台」から見る光景は、意外とガッカリ。


IMGPffdga0130_R.JPG


かろうじて日本武道館の玉ねぎが見える。


どちらかというと、
高層ビルが立ち並ぶ反対側の方が視界が開けている。


IMGP0131_R.JPG


「天守台」の途中にある案内板の江戸城本丸御殿の略図が、
江戸城のイメージを一番駆り立てる。


tenshudai_R.jpg


案内板によるとここに「大奥」があった。


IMGP0133_R.JPG


「大奥」がなければ、堺雅人と菅野美穂は結婚しなかった。
この二人の結婚は、江戸時代に起因する。


以下、「天守台」の写真。
いろんな場所から撮影してみました。


IMGP0136_R.JPG


IMGP0137_R.JPG


IMGP0139_R.JPG


IMGP0141_R.JPG


この穴はなんでしょうか?


IMGP0140_R_Rr.JPG


こちらは、「北桔橋門(きたはねばしもん)」。


IMGP0142_R.JPG


本丸、大奥から外部に直接通じる門であり、最重要門ということで、
門をくぐった先にある濠を深くして、石垣は最も強固なものだったとか。


「天守台」から「桃華楽堂」を見つつ歩くと、
「汐見坂」に辿り着く。


IMGP0144_Rg.JPG


この「汐見坂」は、かなり見所ポイント。


まず、案内板に明治初頭の「汐見坂」の写真が掲載されている。


shiomizakazu_R.jpg


これがかっこいい。
今の「汐見坂」とは、雰囲気が異なる。


石垣の石をよく見ると、記号的なものや変な模様の石が見受けれる。


IMGP0147_Rg.JPG


IMGP0148_Rg.JPG


「汐見坂」の石垣も美しいですが、
坂からの景色も中々です。


かつてはここから埋め立てられる前の海が見えたとか。


IMGP0153_Rg.JPG


写真に写っている濠は、「白鳥濠」。


IMGP0155_Rg.JPG


坂を下った地点からの石垣もいいっすねぇ。


この先に庭園があるようなので行ってみることに。


途中にあった「諏訪の茶屋」。


IMGP0157_Rg.JPG


元々は吹上御苑にあった茶屋で、
明治45年に再建された後、ここに移築された。


吹上御苑は、皇居の西側一帯に広がる原生林。


元々この地域には、ゴルフが大好きだった昭和天皇のためのゴルフ場があった。
しかし、1937年、日中戦争がはじまり、
天皇は、呑気にゴルフをやるのはよろしくないと自粛。


自然のままに残したいという昭和天皇の希望のまま、現在に至っている。


毎年5月の休日に一般公開されている。
一度は行ってみたいな。


対して、人の手が行き届いた「二の丸庭園」。


IMG_4750_R.JPG


IMG_4751_R.JPG


英国式庭園、中国庭園とかありますが、
やっぱり日本庭園が一番和むわ。


IMGP0161_R.JPG


上の写真だとわかり難いですが、滝もあります。


「二の丸庭園」のお隣には「二の丸雑木林」があり、
ちょっとした森林欲を楽しめる。


小川のせせらぎとか、
ここが東京のど真ん中であることを忘れさせる。


IMGP0169_R.JPG


IMGP0170_R.JPG


そして、蚊に食われまくる。


雑木林を抜けると妙なオブジェが。


IMGP0171_R.JPG


「皇居正門石橋旧飾電燈」。


凄まじいデザインセンス。


明治26年(1893年)のものらしい。


ピーター・ジャクソンとか、ギレルモ・デル・トロが見たら喜びそう。


そんな電燈向かって右方面に行くと「百人番所」に戻るので、
「汐見坂」の方へ行き、竹橋駅方面の「平川門」から出ることに。


途中にある「梅林坂・汐見坂間石垣」。


IMGP0174_R.JPG


いやー、マジで美しい。


修復されているので、江戸時代当時のものではないことは分かっているが、
ほぼ同じものが江戸時代に造られていたことが凄い。


いよいよ「皇居東御苑」散策もオーラス。


「平川門渡櫓」。


IMGP0176_R.JPG


IMGP0179_R.JPG


写真だとわかり難いけど、門扉と門柱は超重厚。


「平川高麗門」。


IMGP0181_R.JPG


高麗というと、朝鮮半島の王朝か、
埼玉県の高麗駅、高麗川なんかを思い起こすが、
ウィキペディアによると、日本の門の形式のひとつとのこと。


「平川高麗門」をくぐり、発見所で札を返し、
「平川橋」を渡って内堀通りへ。


IMGP0185_R.JPG


「平川門」に関しては、「千代田区観光協会」のサイトから引用。


内濠に架かり、一ツ橋一丁目から皇居東御苑に入る平川門前の木橋です。
初めは慶長19年(1614)に架けられましたが、その後しばしば改修が行われました。


現在の橋は昭和63年3月31日に改架された姿の美しい木橋(台湾ひのき製、
橋脚と橋台は石、脚桁は鉄骨)で、
長さ29.7m、幅7.82mです。


平川門は、江戸城三丸の正門でした。


死者・罪人を運ぶので不浄門、奥女中の通用門であったのでお局御門の名もありました。


皇居の出入り口ってな感じで、なんも考えずに渡りましたが、
なかなか重い橋でありました。



以上、念願の「皇居東御苑」だったのですが、
想像以上に楽しかった。


歴史的な建築物、驚異的な石垣、美しい庭園に木漏れ日の雑木林。


江戸時代への慕情。


都会の喧噪の忘却。


日曜日にも関わらず混んでいない。


しかも無料。


いいよ、「皇居東御苑」。


印象に残ったのは、日本人が少ないこと。
8割ぐらい外国の方々でした。


残念だったことは、案内板に示されている現在地が、
心ない人物によって削られていたこと。


IMGP0172_Rj.JPG


かなりの案内板がこんな状況だった。


削って何が楽しいのか?


とにもかくにも「皇居東御苑」は、ナイスでした。


この後、御茶ノ水まで歩き、
博多天神でラーメン食って帰りました。


勿論、替え玉あり。


そして、家に帰って暫くするとゲリラ豪雨。


日本の気候は変わった。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.t-shirt-ya.com/blog/cgi/mt-tb.cgi/2594

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)




リンク

プロフィール

1974年、東京都生まれ。少年時代、ジャッキー・チェンの映画に魅了され、映画小僧の道を突き進む。大学卒業後、映画宣伝代理店に入社。『リーサル・ウェポン4』、『アイズ ワイド シャット』、『マトリックス』などを担当。

2000年、スカパー!の映画情報専門チャンネル「カミングスーンTV」転職し、映画情報番組の制作を手掛けたのち、2006年、映画情報サイトの運用に従事。その後、いろいろあって、2013年7月よりCS放送「エンタメ〜テレHD」の編成に携わっている。

本ブログは、多ジャンルの情報提供を志すT-SHIRT-YA.COMのオファーを受けて、2003年4月にスタート。2007年12月にブログ化。
Powered by
Movable Type